ホーム > 企業情報 > 次世代とつながる

和田製糖の歴史 次世代とつながる。 昭和27年5月に和田糖業として開業。
積極的な設備投資と自主独立の精神で生産を拡大。
国内で唯一の独立系製糖メーカーとして、現在に至る。

創業者の生い立ち

「相撲で培った闘争心」
創業者である和田久義は、明治41年12月27日、高知県南国市浜改田の農家中村家兄弟の末っ子として生まれた。幼少時は「ちりめんじゃこ」を食べて骨太で荒波のごとく頑強な体に育ち、小学校高学年の頃には当時盛んであった高知県学童相撲大会の強豪選手となる。その後は高知農業、東京農大と進学し、農大では柔道部に転じ活躍することとなる。
卒業後は、教師の職に就き、出征を経てフィリピンで終戦を迎える。帰国後、教師に再就職するが、昭和25年10月単身で上京。恩師である東京農大南礼蔵博士の助力を得て、人玉(玉砂糖)の製造をはじめる。
製造が軌道に乗り、昭和27年5月に和田糖業として開業。農大の一室にて製造をはじめてから、会社設立までわずか1年6ケ月という短い間に売上げを順調に伸ばし、再生糖業界で首位を占めるほどになった。
その後も収益は安定していくが、決して平坦な道のりではなかった。しかし、久義は、厳しい時でも思い切って設備投資を続け、自ら工場に入り、社員とともに汗まみれになりながら生産を拡大していく。
昭和45年には、純資産の2倍にもなる設備投資を行うが、「メーカーは設備投資をして生産を増やしながら、前に進まなければ生き残っていけない」と語り、周囲を驚かせた。また、ある財閥系大手製糖会社の社長が、和田製糖をゴミ同然と揶揄したことに対し、久義は「小さなゴミでも目に入ったら痛いぞ!」と言い返したという。厳しい状況のなか相撲で培った闘争心が彼を支えていたことが垣間見られる。
昭和50年に息子の征三郎に社長を譲り、翌51年、母校の高知商業に5,000冊に及ぶ図書を寄贈。さらに、昭和53年には卒業した三和小学校にプールを寄贈するなど、自分を育てた故郷への恩返しを忘れなかった。
晩年は、好々爺として孫たちを可愛がり、平成8年7月、88歳で永眠。
写真
江戸川工場発展の歴史

沿革

昭和26年 9月 創業者和田久義、再製糖業を開業。
昭和27年 5月 和田糖業株式会社に改組設立。
昭和29年 3月 和田製糖株式会社に社名変更。日産22トン。
昭和30年 4月 東邦製糖を吸収合併。精製糖を開始。
昭和32年 4月 八幡製糖を吸収合併。
昭和42年 4月 精製糖合理化を図り機器導入。日産170トンとなる。
昭和45年 6月 最新鋭の設備を誇る製糖工場新増設、日産300トンとなる。
昭和50年 1月 和田久義取締役会長に、和田征三郎取締役社長に就任。
昭和51年 3月 長期設備計画に基づく精鋭化により、溶糖能力日産500トン。
昭和53年12月 人形町へ営業所移転。
昭和63年 9月 市原事業所新設。原糖倉庫完成。収容能力30,000トン。
平成元年11月 浜町ビル完成。人形町営業所を移転し浜町営業所と改称。
平成元年12月 ロンドンに出張所を設置。
平成 5年10月 蔗糖型液糖製造開始。
平成 8年 1月 アントシアニン色素の安定化法の特許取得。
平成14年 5月 ISO9001;2000の認証取得。
平成17年 3月 和田征三郎名誉会長に、和田哲義取締役社長に就任。
平成20年10月 本社所在地を浜町ビルへ移転し浜町営業所を本社に変更。
平成28年 6月 東京都中央区新川に本社を移転
令和 5年 5月 江戸川工場 FSSC22000の認証取得。